アトリエ霧島では、油画(油彩)/アクリル絵画/水彩/ジオラマ/パノラマ/ダイヤモンドアート/人形などを創造(創作)しています。

キュビズムからシュルレアリスムへ!目まぐるしい作風の変化を試みた天才パブロ・ピカソの人生を探る!

キュビズムからシュルレアリスムへ!目まぐるしい作風の変化を試みた天才パブロ・ピカソの人生を探る! 美術

20世紀を代表する芸術家、パブロ・ピカソ。特徴的な彼の作品を見たことのない人はいないのではないでしょうか。

幼少期から天才的な才能を発揮したピカソの人生は、革新と挑戦の連続でした。

青の時代と呼ばれる作品群からキュビズム、そしてシュルレアリスムへの転向は、芸術の新しい可能性を切り開き、たくさんのアーティストに影響を与えました。

本記事では、パブロ・ピカソの多彩な作風スタイルと、彼が歩んだ人生の物語を探っていきます。

のちの芸術家に強い影響を与えたパブロ・ピカソとはどんな人物なのか!?

のちの芸術家に強い影響を与えたパブロ・ピカソとはどんな人物なのか!?

パブロ・ピカソ(1881年‐1973年)は、スペイン南部アンダルシア地方にあるマラガ市生まれの画家。

画家としてだけでなく、彫刻家や版画家、陶芸家、舞台デザイナーとしても活躍しました。

ピカソは、20世紀美術において強い影響力をもつ人物の1人であり、多岐にわたる作風の変化と革新性で知られています。

作風の変化はそれぞれ、「〇〇の時代」というように呼ばれています。

  • 青の時代
  • 薔薇色の時代
  • アフリカ彫刻の時代
  • キュビズムの時代
  • 新古典主義の時代
  • シュルレアリスムの時代

パブロ・ピカソの作品は、人生の喜びや悲しみ、ときには政治的なメッセージを含んでおり、彼の多才な芸術的表現が随所に感じられます。

青の時代!悲しみが生んだ傑作たち!

青の時代(1091年〜1904年)とは、パブロ・ピカソの初期の作品群を指します。この頃の作品には、彼の深い悲しみが表現されています。

ピカソが19歳のとき、友人の画家カサへマスが自殺したことをきっかけに、青を基調とした作品を描くようになりました。

「カサへマスの死を知ったとき、私は青い絵を描き始めた」

冷たく鬱屈した心象を、まるで青に支配されたように描いた当時の作品には、「青い部屋」や「自画像」などがあります。

また、ときには娼婦や乞食などをモチーフにするなど、その時代特有の雰囲気を見事に表現しています。

薔薇色の時代!暖かな色彩で幸せを表現!

薔薇色の時代(1904年〜1906年)とは、青の時代からすると劇的な変化を迎えており、パブロ・ピカソの作品に暖かみと幸福感が反映されている時期です。

ピカソは、22歳のときパリに移住し、最初の恋人であるフェルナンド・オリヴィエと出会います。

この頃になると、私生活や精神は安定し、明るい色彩を多用するようになります。ピカソはオリヴィエをモデルに60点以上も作品を描きました。

また、パブロ・ピカソの作品が少しずつ売れ始め、画家として生活していけるようになるのも、この薔薇色の時代です。

キュビズムの時代!芸術技法に革命が起きたとき!

キュビズムの時代(1909年〜1919年)とは、パブロ・ピカソと友人画家のブラックが芸術技法に革命を起こした時期のことです。

この時期のピカソはアフリカ彫刻に強い関心をもっていました。

キュビズム最初の作品である「アヴィニョンの娘たち」では、女性の顔にアフリカ彫刻の影響が見られます。あまりにも革新的な試みであり、当初はほとんど理解されませんでした。

キュビズムとは、物体を幾何学的な形に分解、再構築する手法のことです。従来の作品視点からの脱却となり、作品を見た人々に新たな視覚体験を与えました。

パブロ・ピカソが起こした芸術活動キュビズムは他の画家たちにも影響を与え、それぞれの作品の中に取り入れられ更なる発展をしていきます。

新古典主義からシュルレアリスムへ!古典的技法への回帰と更なる探求!

新古典的主義の時代(1917年〜1925年)とは、パブロ・ピカソが古典的な技法に回帰し、芸術的探求を行った時期です。

ルネサンスやバロックに影響を受け、どっしりと力強くも調和のとれた人間の形を表現していきます。

1925年頃にはシュルレアリスム(超現実主義)に興味を持ち、夢と現実の入り混じるような、奇妙でありつつも魅力的な世界が描かれていきます。

パブロ・ピカソは常に自己の革新を続けていきました。この時代の作品はどれも、直観的かつ感情的な表現が際立っています。

パブロ・ピカソは恋人が変わると作風も変わる!?ピカソの恋愛事情を探求!

パブロ・ピカソは恋人が変わると作風も変わる!?ピカソの恋愛事情を探求!

パブロ・ピカソは、「恋人が変わると作風も変わる画家」なんて呼ばれたりもしています。

1911年、ピカソはオリヴィエと別れ、新たな恋人マルセル・アンベールと共にモンパルナスに住みます。

恋人が変わったことで作風も変わり、キュビズムを進化させた「抽象画」へと移行しました。

ピカソは彼女を愛し、讃えるための作品を残しますが、残念ながら彼女とは病のため死別してしまいます。

その後、1917年にピカソは仕事でイタリアに行きます。その地で、バレリーナのオルガ・コクローヴァと出会い、結婚。息子であるパウロが生まれました。

貴族出身のオルガは、ピカソを上流階級社交界に引き入れます。彼女との結婚生活はきらびやかで新鮮なものでしたが、自由奔放な性格のピカソには退屈でした。

新婚当時は新古典主義的な作風ですが、1925年に開かれた「シュルレアリスム展」に参加したことで、新たな挑戦に心を惹かれます。

新古典主義からシュルレアリスムへの転換期

妻オルガとの関係が冷え込んでいた1927年当時、ピカソは30歳年下のマリー・テレワーズ・ワルターとの密会を盛んに行いました。この時期を転機として、極端な人体を描くことに興味が移ります。

マリーとの間には、娘のマヤが生まれました。

オルガとの離婚はうまく進まず別居を続けていましたが、彼女が亡くなる最後まで離婚はしませんでした。

言わずと知れたパブロ・ピカソの大作「ゲルニカ」

1937年、パリ万博にて大作「ゲルニカ」を発表します。ゲルニカは、スペイン北部の小都市ゲルニカで起きた、フランコ軍の無差別爆撃を題材にしたものです。

凄惨で悲劇的な印象を受ける同作ではありますが、作風は非常に抽象的で、見る人によりその解釈は異なります。

この頃のピカソは、画家でありカメラマンでもあるドラ・マーラと愛人関係にあります。

ドラは、ピカソのよき理解者であり、ゲルニカの制作風景を記録しました。

パブロ・ピカソを捨てた女性

第二次世界大戦後、ピカソはドラと共に地中海沿岸のアンティーブに移り住みます。この時期は絵画だけでなく、陶器や版画にも力を入れていました。

しかしピカソは、またお付き合いする女性を変えます。

次のお相手は、40歳も年下のフランソワーズ・ジロー。彼女との間には2人の子供ができますが、ピカソの性格に愛想を尽かし離別。ピカソは孤独を感じてしまいます。

ここまで、ピカソから離れることはあっても、女性のほうから離れていくことがありませんでした。そのため、フランソワーズは「ピカソを捨てた唯一の女性」と言われているのです。

さいごに|パブロ・ピカソの人生が教えてくれるもの

さいごに|パブロ・ピカソの人生が教えてくれるもの

パブロ・ピカソは、人生の中で常に自己革新を続け、多彩な作風を試みました。

悲しみに包まれた青の時代から薔薇色の時代、キュビスム、新古典主義、そしてシュルレアリスムへと、ピカソの作品は絶え間なく進化し続けました。

彼の人生の喜びや悲しみ、愛と失恋はすべて芸術に反映され、彼の死後もたくさんの人々に深い感動を与えています。

ピカソの作品は彼の魂の叫びであり、時代を超えたメッセージです。そして、私たちに自己表現の自由と挑戦することの大切さを教えてくれます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました